曖昧さの妙〈コラム一草一味〉
2026年02月07日 福祉新聞編集部
辻村泰範 宝山寺福祉事業団 理事長
ずいぶん昔の話になるが、顔見知りになっていた課長補佐との会話を思い出した。「そこは聞いてほしくないんだなあ」「聞かれると答えないといけなくなるからね」。
解釈はお前に任せる。もちろん手前勝手な解釈を許すということではないが、状況事情に応じて裁量の幅を持たせていることを斟酌して細かいところまで質問するなということであった。
お役人というと、とかく杓子定規で愛想がないと世間では思われがちだが彼は違った。
彼だけではない、いわゆる官僚と呼ばれる人たちは、多くが親切で面倒見のいい人たちだ。
杓子定規とは、本来真っ直ぐな木を使って定規にするのに、曲がった杓子を定規代わりに使うことだとある。誤った基準であっても理に沿っていなくても、とにかく定規を当てないことには気が済まないのだ。変じて応用、融通が利かない役人の例えとなったという。
法令の中にはある程度の幅を持たせた表現がある。解釈にゆとりを持たせることで、実際の社会生活での制度の隙間を、ある種の曖昧表現が埋めてきたのである。これまで多様で複雑な福祉課題は曖昧な構えの中で解決されてきたとも言える。
しかし、次第に我々はそれを許せなくなった。定義が揺らぐと不公平にならないか。多様だというなら、その多様性を個々に明らかにして対応する制度を求めたい。複雑だというなら、それを解きほぐして課題を明らかにしたい。隙間や谷間があるなら、隙間を埋める仕組みを求める。
絡み合っているものをそのまま受け止める。どーんとこい、と両足を踏ん張り腕を広げて待ち受ける体勢が求められているのに、社会福祉を標榜ひょうぼうする我々の力量が問われていると言ってもいいのかもしれない。
問うことにより、求めることにより、結局制度の方が複雑化して現場は立ち遅れるばかりとなるのだ。はやりの「包括的」という言葉のある種の曖昧さも同様だ。

