【同志社大・上】新島襄「一国の良心」を養成する

2026年0317 福祉新聞編集部

2026京都・東山の琵琶湖疎水。その分線に沿う約1・5キロの「哲学の道」を南に歩くと、熊野若王子(にゃくおうじ)神社に2025出た。
連休の谷間、5月2日の昼下がり。神社を左手にして、標高183メートルの若王子山を登った。約30分で山頂へ。青葉、若葉がきらめく、冷気に支配された空間。そこに、妻の八重(1845~1932)とともに、新島襄(1843~90)が眠っていた。

新島襄の墓碑。妻の八重や山本覚馬の墓碑もある(若王子山)

密航して米国へ
1843(天保14)年、上州安中藩(現在の群馬県安中市)の江戸屋敷。新島は今の東京・神田の地で、藩士の長男として生まれた。
鎖国を解き、開国を迫るペリーの黒船来航は、10歳の時。13歳で蘭学を学び、アメリカの地図を見た。
「なんと日本は小さな国か」
60(万延元)年、18歳で江戸築地の軍艦操練所に入った。そのころ、漢訳の聖書に出会う。幕末動乱の中、キリスト教に強い関心を持つ。そして、国の行く末を憂い、こう決意した。
「脱国する」
64(元治元)年6月、21歳。国禁を犯して密航を決行し、1年余でボストンに上陸した。現地では、キリスト教信徒らの庇護を受けた。神学を学び、2年後に受洗。伝道団体「アメリカン・ボード」の宣教師の資格を得た。
71(明治4)年11月、日本から岩倉使節団が来ると通訳になり、1年10カ月にわたる欧米視察に同行した。
確信したのは、「教育が、国の盛衰に深く関係する」。ひそかに「この身を教育事業に捧げる」と決める。
「日本で宣教しませんか」
アメリカン・ボードからの話を受け、74(明治7)年11月、10年ぶりに帰国した。

ジョン万次郎の影響
命がけと言っていい、新島の挑戦。実は、その冒険に重なる人物が、軍艦操練所の教授陣にいた。
ジョン万次郎(1827~98)。14歳の時、土佐沖で漂流して無人島へ。捕鯨船に救助されて渡米。12年後に帰郷してペリーの通訳をした「数奇な人」である。
新島は、万次郎の授業を受けていたのか。万次郎の口述本「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」を現代語訳した同志社出身の谷村鯛夢さんの講演での考察が、2019(令和元)年9月発行の「同志社ファン・レポート」にまとめられている。
新島が操練所に入ったころ、万次郎は、勝海舟や福沢諭吉の乗った咸臨丸に、通訳として乗船していた。
<咸臨丸は、1月出港、5月帰国。万次郎は、8月に操練所を辞す。5月から8月の間で、教えを受けたとは考えられる>
谷村さんは、こう推察している。そして、続ける。
<同志社OBで歴史家の大越哲仁さんも『海外渡航は国禁であるが、大きな成果を持って帰れば罰せられるのではなく、評価をもって迎えられる』という、いわば『成功のモデルケース』を、新島は万次郎に見た……と論じている>

新島襄と八重(同志社大学提供)

英学校、女学校設立
再び、新島。アメリカを旅立つ際、5000ドルの寄付を集めていた。
「当座の資金はある。どこに建てるかだ」
新島は、岩倉使節団の一員だった木戸孝允らの助言を受けて、大阪や京都を回った。1年後の1875(明治8)年11月29日、華族が所有する旧高松邸(京都市上京区寺町通)の半分を賃借して、同志社英学校を開校した。教師は新島と宣教師、J・D・デイヴィス(1838~1914)の2人、生徒は8人だった。
英学校は10カ月後に、旧薩摩藩邸に移転する。現在の今出川キャンパスの校地だ。八重の兄で旧会津藩士、京都府顧問の山本覚馬(1828~92)から、土地を格安で譲渡してもらったのだ。
実は、新島と覚馬は、文字通りの同志。連名で「志を同じくする者が創る結社」として「同志社」をつくり、私塾開業願を国に出していた。「同志社」の命名は、覚馬だったとされる。
この開校の縁で翌年、新島は覚馬の妹、八重と結婚する。英学校の跡地を買い取って1878(明治11)年9月、木造2階建ての新居を建てた。前年には、八重の力も得て同志社女学校(同志社女子大の前身)を設立した。

「大学設立旨意」公表
新島は英学だけでなく、徳育を重視した。神を信じ、真理を愛し、思いやりの情けに厚いキリスト教の道徳、これを「キリスト教主義」と呼び、基本とした。
英学校開校から約8年。1884(明治17)年4月、新島は動いた。「同志社大学設立旨趣」と「同志社設立の始末」をまとめた。
「私は諸病の問屋だ」
常々、こう話していた新島は、持病のリウマチ熱などで静養が必要となり、大学設立の動きは足踏みする。
それでも1888(明治21)年11月、4年前の「設立旨趣」を踏まえた「同志社大学設立旨意(考え)」をまとめあげ、新聞や雑誌に発表した。
<日本の高等教育に関してただ一校、帝国大学(東京大学)だけに依存して終わりとするべきではない。政府が帝国大学を設立したのは、国民に模範を示そうとしたのであって、私たち国民は傍観しているだけでよいのだろうか>
<一国を維持するのは、教育があり、知識があり、品性の高い人たち……「一国の良心」とも言うべき人たちだ。「一国の良心」を養成するのが、実に同志社大学を設立する目的なのである>

道半ば…「また会わん」
京都で募金活動を始め、奈良・吉野の山林王、土倉庄三郎(1840~1917)らから寄付を得た。東京でも、大隈重信や渋沢栄一らの支援を取り付けた。
帝国議会開設の1890(明治23)年11月も迫り、新島は「立憲政治を100年後に継続するためにも、今こそ大学を」と訴えた。だが、その10カ月前、道半ばで倒れた。神奈川県大磯の静養先で逝った。46歳。死因は、急性腹膜炎症。新島は、最期に言った。
「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
(関西支局・平田篤州)

 

同志社大学メモ
京都御所の北に広がる今出川校地(京都市上京区今出川通烏丸東入)と、緑豊かな京都府南部の京田辺校地(京田辺市)がある。今出川校地では約2万人、京田辺校地では約9000人が学ぶ。神学、文学、社会学、法学、経済学、理工学、生命医科学など14学部。社会福祉学科は、社会学部にある。大学院に設けられた研究科は16。社会学研究科に社会福祉学専攻(博士課程)が置かれている。学長は植木朝子。運営主体は学校法人同志社。総長・理事長は八田英二。

0 Comments
インラインフィードバック
すべてのコメントを見る