長嶋茂雄さんと厚労大臣〈コラム一草一味〉
2025年06月28日 福祉新聞編集部
和田勝 福祉社会総合研究所 代表
6月3日に長嶋茂雄さんが亡くなられた。長嶋さんが巨人に入団した1958年は、日本経済が高度成長期を迎えようとしていた時期で、東京タワーが完成して本格的なテレビ時代を迎えようとしていた。12月には国民健康保険法が公布されて61年4月からの国民皆保険の実施が進められることになった。
長嶋さんは戦後の日本を象徴する一人で、東京六大学野球で活躍し、巨人軍の4番打者として9年連続日本一(V9)を成し遂げ、国民栄誉賞(2013年)、文化勲章(21年)を受章されたが、厚生大臣との知られざるエピソードがある。
1994年、自社さ連立政権の村山富市内閣が発足し、新党「さきがけ」の井出正一さんが厚生大臣に任命された。この年、巨人は中日と同率で並んだ最終戦に勝利してリーグ優勝、日本シリーズではパ・リーグ5連覇の西武ライオンズと対戦し、4勝2敗で勝利した。
私は当時、厚生省の大臣官房総務課長で広報室も担当していた。新大臣には、省の広報誌「厚生」に登場してもらう慣例があり、井出大臣からは大ファンであった長嶋さんとの対談の形で進めてほしいと要望があった。私は幸い以前に長嶋さんと会食したことがあり、その時の縁でお願いしたところ、快諾いただき対談実現となった。
食事をしながらの対談に私も同席したが、お二人のこども時代、長嶋さんは阪神の、井出大臣は巨人の大ファンだったとのことで、話は大いに盛り上がった。大臣は巨人の、長嶋さんは阪神のスターティングメンバーの打順、ポジション、背番号をそれぞれそらんじていて、お互いに大きな声で読み合っていた。
意外だったのは、長嶋さんは佐倉高校卒業後の就職先として地元の国立病院に内定していたとの話であった。実現していれば大臣と職員の関係ということになったが、当時、立教大の砂押邦信監督が強く勧め、厚生省入省をやめて立大に入学されたとのことであった。
「厚生」での対談は、そんな奇縁もあって実現した。私はもっぱら聞き役で、目の前にある酒をいただいたが、盃が さかずき 空くと長嶋さんがお銚子から何度もついでくださった。井出大臣は長野県佐久地方の造り酒屋の経営者でもあった。